更新日: 2024年11月6日
『紫式部日記』から読み解く紫式部の人生と性格
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の放送で、改めて脚光を集める紫式部。
『源氏物語』の作者として知られる紫式部ですが、宮廷で中宮彰子に仕えた日々を綴った『紫式部日記』もまた、彼女の代表作として知られており、紫式部自身の言葉で自己を表現しています。
平安中期、桓武から宇多・村上天皇頃までは天皇が権威.権力の中心のいわゆる天皇親政の時代でした。従って女性たちは、自分の意志とは関係なく政治的に利用される存在でしたが、天皇の権威・権力が薄れ、藤原氏の勢いが増し、受領階級の台頭によって、紫式部をはじめとした中流の受領階級の女性たちは、自分の言葉で自己を表現するようになりました。
ここでは『紫式部日記』から、紫式部の恋愛感と人生を紐解いていきます。
『紫式部日記』は藤原彰子の描写が中心の日記
紫式部が中宮彰子の宮廷に仕えたのは、藤原道長の求めによるものです。
藤原道長は、兄の藤原道隆が娘の定子を一条天皇の皇后として入台させているのに対抗して、12歳の自分の娘、彰子を中宮(皇后と同格として新設)として一条天皇の元へと輿入れさせました。
藤原定子と一条天皇の仲は良好でしたので、天皇の関心を彰子に向けさせる為に紫式部を彰子のそばに仕えさせましたのでした。
紫式部の「源氏物語」は大評判で、天皇も未完の部分が読みたく、藤原彰子の局にしばしばやって来ました。
なかなか子ができなかった藤原彰子ですが、度々の天皇の訪問で十年後に、後一条天皇を生みました。藤原道長の作戦が功を奏したわけです。
『紫式部日記』に記された中宮彰子への忠誠
紫式部は、『紫式部日記』の中で藤原彰子のことを絶賛することで、彰子の評価も当然上がりました。従ってこの『紫式部日記』は彰子の宮廷の描写が主で、紫式部の個人的な恋愛や結婚などは描かれていません。
ただ『紫式部日記』の冒頭で、「自分のような人生の苦しさを味わったものが、せめてもの慰めを得ようとするのには、このような方(中宮)を主人にして宮仕えするのが、一番いいと思うのです。過去を悲しんで灰色になっている心もお傍にいる間は、すっかり変わっています。信じられないほどです。」と書いています。
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【筆者】能勢初枝
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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)